今から400余年前。太閤豊臣秀吉の奥州仕置により、米沢城72万石を治めた伊達政宗は、岩出山城58万石に減転封を命じられ、叔父、最上義光と共に領内安堵と平定の為、豊臣家への忠心を誓うのであった。
その10数年後……
後に天下の五大老と呼ばれる上杉景勝に、陸奥国会津120万石への移封の命が下り、上杉家執政 直江兼続が新たに米沢城主として新領地を治める事となる。
上杉の城下町、米沢の始まりである
しかし、新領地への移封は、予てより庄内地方を巡り激しく争っていた出羽山形24万石大名、最上義光との関係を更に悪化させ、両者の衝突を不可避の状態にするものでもあった。
三家三様の体でありながらも豊臣家に忠誠を誓う上杉家、最上家、伊達家であったが、これを揺るがす事変が各家に起こる。
愛娘、駒姫を思う 出羽の虎将、最上義光の決意
最上家の三女・駒姫の美貌に目を付け自身の側室にと執拗に迫る豊臣秀次に対し、幼少を理由にこれを固辞する最上義光。せめて成人の後にという約を結び側付となるが、その後、当の秀次が謀反の疑いを掛けられ、一族は側室から使用人に至る全ての者に処刑が命ぜられる。
最上義光の嘆願と、これを哀れに思った徳川家康の執り成しも空しく、駒姫は連座、打ち首に処される。
―― 駒姫15歳であった。
天下人、豊臣秀吉の死~台頭する徳川家康
慶長3年8月、秀吉が逝去すると豊臣家を支えた五大老に亀裂が入る。 これが上杉家を危機へと進ませる兆候であった。五大老筆頭として天下の覇権を狙う徳川家康に対し、上杉景勝は対立する立場をとる。
「直江兼続と石田三成が親交深かったから」など諸説あるが、秀吉への恩義に加え、上杉家の家訓でもある「義」を尊べばこその対立でもあったといえよう。
疑念と証明
秀吉の葬儀のため上洛するものの、翌年3月には直江兼続の指揮の下、普請奉行に実弟の大国実頼を据え、神指城の築城が開始されることとなる。会津に移ったばかりの上杉家とすれば、権力の象徴ともいえる既城は、些か心もとない状態であった。
ともすれば、天下の五大老を預かる上杉景勝としては、新たに城を築くのは至極当然であった事であろう。加えて、領内に流れる阿賀野川水系を用いた水運の発達と商業発展を願った「国造り拠点」ともいえるこの築城は、上杉家にとって急務でもあった。
この上杉の動向は、奇しくも旧領地の越後の大名、堀秀治によって「景勝が軍備を整え、戦の支度を行っている」という知らせとして、徳川家康の知るところとなる。
知らせを受けた徳川家康は、臨済宗の僧であり、また直江兼続の旧友でもある西笑承兌に筆を執らせ、直江兼続に真相を問う。しかし、その中身は「上杉に謀反の疑い無くば、上洛し弁明せよ」という上杉謀反の疑義を問う詰問状であった。
直江状と徳川家康
十数か条に渡って書き連ねられた書状は、上杉家の理を坦々と伝えるのみならず、あたかも天下人然として振る舞う徳川家康と、これに与する諸大名を真っ向から否定する内容であった。
曰く、「確かに武具鉄砲を集めていますが、上方の方々が茶道具などの人たらしな道具を集める事と同じように、田舎の武士は武具を好んで集めます。城を建て、道を敷き、橋を架けて宿場を整えるのは、太閤殿下より拝領された当地の任官としては当然の役目で、領内の整備のために他なりません。」と書き記した。
加えて、「そもそも、天下に名高き筆頭大老様とあろう御方が、領地開発の基礎も踏まえず、不信者の言葉を鵜呑みにされ、白を黒だと言い張る詰問に何の意味がございましょう。公平公正な立場からみれば真偽は明白なはずです。」と綴っている。
さらには、「そもそも豊臣家に忠心を示した以上、二心を抱く不義理な行いは、先代上杉謙信公の『第一義』の教えに背くもの。証拠もなしに謀反だと騒ぎ立てられ大変迷惑しております。太閤様の遺志にも従わず、伊達家と縁組をするなど、法を蔑ろにし、不都合に蓋をする様は、正に天下人の御振る舞い。実に結構な事ですな。」と書き結んでいる。
この直江状については、後世に改変されたという説もあり、現存する実文書が残されていない事などから、その真偽を問う声も多い。
たしかに、420余年が経ち、今なお語り継がれる天下分け目の大戦:関ケ原の戦いの発端とも呼べるほど重要な書状が、今日に至るまで、その切れ端の一片すら残されていない点は些か奇妙でもある。
尤も、歴史とは常に勝者の側が書き記し、敗者は密やかに語り継ぐばかりであるが、これもまた歴史の理である。それゆえ、歴史的発見は案外敗者の側からもたらされる事も多い。
しかしながら、この「直江状」に限っては、手元に届いたその日の内に会津征伐が決定され、ひと月も経たぬ内に諸大名たちに陣触れが出された点などから推察するに、存外歴史の理によって不都合を伏せられのではなく、単に徳川家康の逆鱗に触れたという、ある意味で最も人間らしい理由によって、紙片となり果てたのではないだろうか。
ともあれ、結果として徳川家康は会津征伐を決心し、大挙して進軍を開始したことは、日ノ本の歴史上まぎれもない事実である。
剣は捧ぐべき主を失い
上杉家の態度は明確化された――。
慶長5年(1600年)5月3日に到着した直江状によって徳川家康は会津征伐の大義名分を得た。翌月6月2日には陣触れが出され、同月6日には会津征伐の評定が決した。
決議の場は、奇しくも上杉家が忠心を捧げた豊臣秀吉の居城、大阪城西の丸であった。
これにより、関東の諸大名は天下動乱の機に覚え目出度くとばかりに名乗りを上げ、征伐軍は瞬く間に編成されていった。
この討伐の流れはさらに加速し、遂には後陽成天皇より晒布100反が下賜され、さらに翌週には豊臣秀吉の実子に当たる豊臣秀頼から黄金2万両と米2万石が下賜され、文字通り公武の御墨付を与えられる事となった。
これにより、名実ともに天下の大正道となった徳川家康としてみれば、この一連の上杉家との争いは、もはや戦などではなく、逆賊会津≪上杉家≫を討つための「征伐」的な位置づけであったのだろう。
この決議の沙汰をいち早く捉えた直江兼続は、神指城の築城中断の指揮を大国実頼に任せ、これに対抗すべく軍備を整えるのであった。
天の時、地の利、人の和
直江兼続は自らを総大将とし、会津征伐軍の侵攻に備えた。
領内南部に位置する奥州の関門、白河口を主戦場と定め、南方に広がる革籠原のくびれに数キロメートルに及ぶ防塁を築き、徐々に狭まる山林地形を生かして徳川軍を誘い込み、上杉家軍監:水原親徳 率いる砲兵隊を両翼斜面に展開させ、上下に設えた曲輪によりこれを迎え撃つ陣を敷く。圧倒的不利と囁かれる中、あえて対決を選んだ理由は他でもない―― 勝てるのである。
「天の時、地の利、人の和」という言葉の通り、天の時は熟し、征伐軍は徳川一色の旗色である。だが、これが良いのだ。
公武の命を任ぜられたにせよ、天皇や豊臣家といった公武そのものに事を構えるという訳ではない。
地の利については言わずもがな、主戦場の革籠原は前述の通り守るにひらけ、攻めるに険しい。北に連なる奥羽山脈で背後を庇い、那須連山と会津駒ケ岳の間を通す地形は、奥まるほどに侵攻が難しくなる天然の大要害である。
仮に数か月に及ぶ長戦となったとしても、雪に不慣れな上方の征伐軍は一晩に数メートルは積もる深雪に退路を断たれ、補給と兵站を失う。一時撤退を強行するにも足が遅い。
人生の3分の1を雪と戦う雪国の民とは到底地力が違うのである。
では、人の和とは何か―― 解は和睦である。
そもそもこの争い。上杉家にせよ徳川家にせよ、仰ぐ天守はどちらも同じ豊臣家なのである以上、たとえ天下の五大老同士といえども、解釈の差を巡って家臣同士が争っているに過ぎない。言い換えれば大規模な意地の張り合いである。結局のところ、どちらが勝っても大差はない。
当然こうなると、互いに武士としての忠義を示して然るべしということになる。降りかかる謀反の疑いに怯えて平伏するようでは、かえって疑念の証明にもなりかねないからだ。
ならば多少の犠牲を払ってでも、「第一義」を掲げる上杉家としては、その家命を貫き通し、双方に忠心を示したうえで公武の執り成しによる和睦の天言を受ければよいという事になる。
―但し、同じ天守を仰いでいればの話である―
- 続 -